賀茂保憲とは?安倍晴明の師が極めた陰陽道と呪詛返しの伝説
呪術全盛期の平安時代。著名な陰陽師といえば安倍晴明(あべのせいめい)ですよね。
では、彼に陰陽道を教えた師をご存じでしょうか。
今回は安倍晴明の師匠「賀茂保憲(かものやすのり)」についてです。
烏帽子が上手く描けなくてすみません。。。
お気になさらず!
平安時代の日本において、陰陽道は国家の運営にも関わる重要な学問とされ、多くの陰陽師が活躍しました。その中でも、賀茂保憲(かものやすのり、917年 – 977年)は、陰陽道の発展において重要な役割を果たした人物の一人です。
彼の生涯や業績、そして彼にまつわる伝承について詳しく見ていきます。
賀茂保憲の生涯
賀茂保憲は、平安時代の著名な陰陽師であり、陰陽道の大家である賀茂忠行(かものただゆき)の子として生まれました。幼少の頃から陰陽道の才能を示し、父のもとで陰陽道や天文、暦学を学んだのです。

保憲は陰陽寮に仕え、天文博士や暦博士、陰陽頭などの要職を歴任し、朝廷に仕える陰陽師として活躍しました。彼は、陰陽道に関する多くの知識をまとめた『暦林』や『保憲抄』といった著作を残し、日本の暦法の発展に大きく寄与したのでした。
彼の門下からは多くの優れた陰陽師が育ちました。その中でも最も有名なのが安倍晴明(あべのせいめい)です。賀茂保憲は晴明に陰陽道の奥義を伝え、彼を世に送り出しました。

また、賀茂保憲の次女は優れた歌人として知られ、『保憲女集』という私家集を残しています。彼女は病に伏しながらも、多くの和歌を詠んだとされています。
賀茂保憲の呪詛返し(『今昔物語集』より)
賀茂保憲には、数々の呪術を施したという伝説が残されています。その中でも特に有名なのが、「呪詛返し」の逸話です。少し短縮してご紹介しますね。
「呪いとは、鏡のごとし。己が放てば、己に還る。」
平安の都において、ある貴族が重い病に伏していた。医者が手を尽くしても、加持祈祷を施しても、一向に回復の兆しはなかった。次第に衰弱し、やがて死の淵へと近づいていた。
「これは尋常な病ではない……」
家人たちは怯え、誰ともなく囁いた。
「もしや、呪詛ではないか?」
その噂は瞬く間に広まり、ついに賀茂保憲のもとへ助けを求めることとなった。
賀茂保憲は、静かに病人を見つめ、呪符を手に取った。そして、枕元に水盆を置き、月の光が差し込むのを待った。

すると、水面に女の影が揺らめいた。
「やはり、呪詛である」
保憲は低く呟いた。
病の原因は、生きた人間の怨念、すなわち生霊であった。その女は、かつて病人が愛しながらも捨てた者。憎悪と悲しみを募らせ、深夜ごとに呪詛を唱えていたのだ。
「これを解かねば、貴殿の命は尽きる」
賀茂保憲は、呪符を握りしめ、呪詛を返すための術を施した。

「返せ、返せ、汝が呪い、汝に還れ」
彼が呪文を唱えると、突如、室内の灯火が揺らぎ、風もないのに戸が軋んだ。
すると、病人の苦しげな呼吸が徐々に落ち着き、安らかな顔を見せ始めた。
しかしその頃、遠く離れた家の片隅で、一人の女が悲鳴を上げたという。
彼女の背には見えぬ刃が突き刺さり、己がかけた呪詛が、そのまま己の身を蝕んだのだった。
翌朝、病人はすっかり回復していた。
「賀茂殿の御力に感謝いたす」
貴族は深く頭を下げた。
しかし賀茂保憲は、ただ静かに微笑み、夜空を見上げた。

「呪いとは、巡るものよ。人が憎悪を抱く限り、呪いは消えぬ……」
こうして、都では今も語り継がれる。
——**「呪詛をかけるな。己が身に返るぞ」**と。
賀茂保憲の影響と現代への伝承
賀茂保憲は、日本の陰陽道の発展において極めて重要な役割を果たしました。彼の知識と技術は、後に安倍晴明へと受け継がれ、平安時代の陰陽道を確立する基盤となったのです。
また、彼の呪術に関する逸話は、『今昔物語集』などの説話集に収められ、後世に伝えられています。さらに、歌舞伎の演目『蘆屋道満大内鑑』では、彼が中国の仙人から伝わる占術書『金烏玉兎集』の所有者として描かれ、呪術を巡る壮大な物語の一部として語り継がれています。
現代では大人気漫画「呪術廻戦」でも加茂家の数人が重要な人物とされていますね。
賀茂保憲の存在は、日本の呪術文化の歴史の中で、決して消えることのない影を落としています。