忠臣蔵とは?第3話|赤穂浪士の討ち入りと吉良邸での戦い
静かな決行の夜、12月14日
元禄15年(1702年)12月14日、江戸の町は冷え込み、雪が降りしきる夜でした。

この夜、47人の浪士たちが、ついに吉良上野介義央の屋敷へ討ち入りを決行します。
彼らが主君・浅野内匠頭の仇を討つため、約2年の沈黙を破った瞬間でした。
大石内蔵助の指揮のもと、浪士たちは2手に分かれて吉良邸を包囲し、
門と裏口の同時突破という、見事な連携で屋敷内になだれ込みました。
吉良上野介の屋敷とは?
吉良の屋敷は、現在の東京都港区・本所松坂町(現:両国駅近辺)にありました。
侍屋敷としてはかなり大きく、部屋数も100を超え、守衛も60人以上とされていました。
夜襲には向かない構造ではありましたが、浪士たちは綿密な調査と訓練により攻略ルートを把握していたのです。
静かなる総攻撃
討ち入りは、鐘の音ではなく、合図の拍子木で始まりました。

浪士たちは誰一人として油断せず、住人たちを傷つけることなく、**あくまでも標的は「吉良上野介ただ一人」**という覚悟を持って行動したと伝えられています。つまり、戦いを挑んでくるものは容赦せず切り伏せるが、そうでなければ手を出すことはなかったのです。

屋敷の者は奮戦しますが、浪士たちは士気も高く、統率も取れており装備も十分でした。そして、47人だれ一人欠けることなく、戦いはおよそ1時間半で終結します。
これは諸説ありますが、まさか討ち入りなどしてこないだろうと高を括っていたことが敗因ではないでしょうか。2年という準備期間がこの討ち入りを成功させたのです。
吉良上野介の最期
屋敷の奥深くに隠れていた吉良上野介を見つけたのは、堀部安兵衛だったとされます。
大石内蔵助が最後の確認を行い、「この者こそ仇である」と認定して介錯を行ったと伝えられています。

浪士たちはその首を竹筒に納め、主君・浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かいます。
その姿に、江戸の人々は…
討ち入りを終えた浪士たちが、首を持って泉岳寺へ向かう姿を見て、江戸の人々は口々に「義士だ」「よくやった」と称えたといいます。

彼らの行動は幕府の法を破るものでしたが、同時に「忠義」「武士道」の精神を貫いたものとして、庶民の支持を集めたのです。
次回予告|第4話:切腹と民の声――浪士たちの最期と日本人の記憶に残る忠義

討ち入りを果たした浪士たちに待っていたのは、**栄誉ではなく“裁き”**でした。それもそのはず。仇討ちは公式なルールに沿って許可をされるもの。この討ち入りは許されるものではなかったのです。
しかし、彼らの最期は多くの人々に涙を呼び、忠臣蔵は後世へと語り継がれていくことになります。