忠臣蔵とは?第4話|浪士たちの切腹と民衆の涙、義士となった47人の最期
幕府の裁きが下る
元禄15年(1702年)12月14日。
吉良邸への討ち入りを成功させた四十七士は、首級を持って泉岳寺へ赴き、主君・浅野内匠頭の墓前で報告を済ませたのち、全員自首します。そう、捕まったのではなく、主の墓前に報告した後、自ら幕府の縄についたのでした。
しかしこの行為は、法的には**幕府の禁を破った「私刑」**にあたります。
幕府内では処遇をめぐって大きな議論が起こりました。

「忠義の鑑(かがみ)」として賞賛する声と、「法の下に処罰すべし」とする意見が真っ向から対立したのです。
その結末は「切腹」
討ち入りの翌年、元禄16年(1703年)2月4日。
幕府はついに判断を下します。
四十七士に対し、「武士として名誉ある切腹を命じる」

これは極めて異例の措置でした。
通常であれば打ち首や獄死となるところ、幕府は彼らの「忠義の精神」に対して一定の敬意を表した形だったといえます。
最期の時を迎える浪士たち
四十七士は、切腹の命を受け入れ、それぞれ4つの大名家に預けられていた屋敷で、粛々と自らの命を絶ちました。
大石内蔵助をはじめとする彼らの死に様は、あくまで冷静で、潔く、武士の本懐を遂げる姿だったと伝えられています。
民衆の反応――涙と称賛
彼らの最期は、庶民の心を強く打ちました。

- 「本当に討ち果たしたのか!」
- 「武士の忠義とはかくあるもの」
- 「彼らは義士だ!」
切腹という結果にもかかわらず、その姿は**“義を貫いた英雄”**として、民衆のあいだで語り継がれていきます。
やがて、**「忠臣蔵」**という物語として脚色され、芝居・講談・浮世絵、そして現代の映画・ドラマに至るまで、300年以上にわたって日本人の心に刻まれることとなりました。
「義士」とは何か
法を犯してまで仇を討つことは、現代の価値観では決して推奨されません。
しかし、当時の日本では「忠義」「名誉」「恩に報いる」という価値観が、人々にとってとても大切なものでした。

四十七士はその信念を貫き、命をかけて行動しました。
だからこそ、彼らは**「義士(ぎし)」=正義を成した士(さむらい)**と呼ばれるのです。
次回予告|第5話:語り継がれた忠臣蔵――庶民に愛された“義の物語”の広がり
忠臣蔵は、史実を超えて「物語」として広がり、やがて時代劇・歌舞伎・文学など、さまざまな形で表現されていきます。
第5話では、“語り継がれる忠義”のかたちを見ていきましょう。