忠臣蔵 番外編|唯一生き残った浪士・寺坂吉右衛門の謎と生涯

討ち入りを果たした「四十七士」。しかし、切腹したのは46人?

忠臣蔵といえば、主君の仇を討った四十七士の物語。
彼らは討ち入りの後、幕府の命によって切腹により命を絶ったと語られています。

しかし、実はその中に、ただ一人だけ生き延びた人物がいたのです。

その名は――

● 寺坂吉右衛門 信行(てらさか きちえもん のぶゆき)


浪士の一員として討ち入りに参加

寺坂吉右衛門は、赤穂藩に仕える下級藩士でした。

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年齢は当時30代半ばとされ、忠義心の強い人物で、討ち入り当日も実際に現場に参加していたことは記録に残っています。

吉良邸での戦闘にも加わっており、その働きがなかったとは考えにくい人物です。

ところが――


なぜ彼だけが生き残ったのか?

この点については、いくつかの説が存在し、はっきりとした記録は残っていません。


【説1】討ち入りの記録を後世に伝える“語り部”として残された

もっとも有名な説がこちらです。

  • 大石内蔵助が事前に「この討ち入りの意義を後世に伝える者が必要」と考え、寺坂にその役を託した。
  • 寺坂は泉岳寺での主君への報告に同行せず、そのまま姿を消した

➤ この説において彼は、浪士たちの**「忠義の証人」**という重要な役目を担った存在とされます。


【説2】切腹命令の“対象外”だった

もうひとつの現実的な説は、幕府の処分命令の枠組みに基づくものです。

  • 浪士たちは討ち入り後、4つの大名家に“お預かり”という形で預けられていました。
  • 寺坂はその「お預かり者リスト」に含まれていなかったため、処分命令の対象外となった。

➤ この説では、寺坂は**「切腹せずとも罪に問われなかった浪士」**として説明されます。


その後の人生は?

寺坂吉右衛門は、討ち入りの後、各地を転々としながら忠臣蔵の真実を語り続けたと伝えられています。

  • 浪人生活を経て、最終的には赤穂に戻り、農民として静かに暮らしたとも。
  • 晩年には泉岳寺を訪れ、「皆の隣に眠りたい」と語ったとされます。
  • 享年83歳。波乱の人生でしたが、長寿を全うしています。

彼の墓も、泉岳寺の義士墓所に他の46人と並んで建てられています。


歴史を支えた“語り部”の存在

忠臣蔵の物語が、ここまで詳細に語り継がれてきた背景には、寺坂のような「実際に討ち入りを経験し、それを言葉にできた人物」の存在があったからこそです。

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歴史に名を残す者の中には、刀を振るう者と同じくらい、物語を語り継ぐ者の重みがあるのかもしれません。


まとめ

項目内容
名前寺坂 吉右衛門 信行
討ち入り参加あり(現場にもいた)
生存理由記録係説・処分対象外説など複数あり
最期83歳で死去。泉岳寺に埋葬

同志たちは切腹、しかし自分は語り継ぐべく生きる・・・きっと並大抵な覚悟ではなかったでしょう。

死んで名を残すは易し。
生きて真を伝えるは、なお重し。

友が斬り、我は語る。
それもまた、忠義のかたち。

彼の御霊はきっと同志たちのもとに。

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