安徳天皇と御霊信仰|幼き天皇はなぜ神として祀られたのか?
日本の歴史には、無念の死を遂げた人物が「祟り神(たたりがみ)」として恐れられ、後に神として祀られた例がいくつも存在します。
その中でも、わずか8歳という若さで命を落とした悲劇の天皇――安徳天皇は、特別な存在といえるでしょう。
今回は、安徳天皇にまつわる伝承と、それを受け継いできた**御霊信仰(ごりょうしんこう)**についてご紹介します。
幼き天皇の悲劇 ― 壇ノ浦の最期
安徳天皇は、平清盛の孫にあたり、1180年、わずか2歳で即位しました。
当時の日本は源平の争乱のさなかであり、彼の即位は、平家による権力の象徴でもありました。
しかし、平家の運命は急速に傾き、1185年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗北。
その最終局面で、祖母・建礼門院に抱かれたまま、安徳天皇は入水して果てたと伝えられています。

「海の底にも都がございます」
――これは、入水の直前に建礼門院が語ったとされる言葉です。
この言葉は、安徳天皇の最期がいかに無念であったか、そしてどれほど痛ましいものであったかを今に伝えています。
赤間神宮 ― 祟りを鎮める御霊信仰の象徴
安徳天皇の御霊は、山口県下関市の赤間神宮に祀られています。
この神社はもともと「阿弥陀寺」という寺でしたが、後に神仏分離の影響を受けて、現在の神社の形となりました。
安徳天皇を神として祀る理由は、「敬意」だけではありません。
それは、祟りを鎮めるためでもあったのです。
御霊信仰とは?
日本には古くから、「無念の死を遂げた者の魂は祟る」と考えられてきました。
そして、そうした霊を鎮めるために、神として祀る文化が生まれました。
これを「御霊信仰(ごりょうしんこう)」といいます。
有名な例としては――
そして、この御霊信仰の対象として、安徳天皇も加わっているのです。
壇ノ浦に残る怨念と怪異
安徳天皇の死後、壇ノ浦の海には不思議な現象が多く報告されました。

- 漁師が「赤い着物の子ども」を見たという話
- 海に引きずり込まれそうになる怪異
- 平家の怨念が宿ったとされる「平家ガニ」の伝説
こうした海の怪異は、安徳天皇と平家一門の無念の象徴として語られ、「今も成仏していないのではないか」という畏れの心を呼び起こしてきました。
なぜ神として祀られたのか?
安徳天皇が祟ったという史実はありません。
しかし、幼くして犠牲になったという悲劇性、平家滅亡という大きな死の記憶、その地に残る怪異――
これらが積み重なったことで、人々はその魂を慰め、鎮める必要を感じたのです。
つまり、「神として祀る」という行為自体が、恐れと敬意の表れだったのです。
おわりに ― 祟りと神は紙一重
安徳天皇の伝説は、「祟り」と「信仰」が表裏一体であることを教えてくれます。

祟りを恐れるがゆえに、祀り、敬い、神として扱う。
その心の動きこそが、日本の御霊信仰の本質なのかもしれません。
そして今、赤間神宮は、悲劇の幼帝を静かに慰める場所として、多くの人々に守られ続けています。