源氏と平氏はなぜ戦ったのか?源平合戦をわかりやすく解説|武士の時代の始まり
歴史の教科書でもよく見かける「源氏」と「平氏」の戦い。
でも、どうして同じ“天皇の子孫”同士が争ったのでしょうか?今回は、源平合戦の背景と本質をやさしく解説します。
武士が台頭した時代背景
時代は平安時代の終わりごろ。
それまで日本の政治は貴族(藤原氏など)が中心でしたが、次第に地方の治安維持や税の取り立てを担う“武士”たちが力を持つようになってきました。

その代表が――
- 源氏(げんじ):東国(関東)で勢力を伸ばした武士団
- 平氏(へいし):西国(京都~瀬戸内海)を基盤にした武士団
どちらも、もともとは天皇家の血を引く“名門”です。
けれども、やがてその立場は大きく分かれていくことになります。
平清盛の登場と平家の全盛期
1150年代から登場するのが、平氏の棟梁(リーダー)**平清盛(たいらのきよもり)**です。

- 朝廷内の争い(保元の乱・平治の乱)に勝利し、
- 貴族や他の武士たちを押さえて、
- 自らの娘を天皇の后(きさき)にし、
- 孫である安徳天皇を即位させました。
そして自分は、天皇の外祖父(がいそふ)として“太政大臣”の地位まで登りつめます。
👉 こうして**平家は政治・経済・軍事のすべてを支配する「最強の一族」**となったのです。
不満が高まる――「平家の天下」に反発する人々
ところが、全国の武士たちはこう思いはじめます。
「なんで平家ばっかりいい思いをしてるんだ?」
「地方の武士は無視されているぞ!」

- 朝廷に仕えても出世できない源氏
- 地方を守っても報われない東国の武士
- 権力を失いつつある貴族たち
こうして、“反平家”の気持ちが全国に広がっていきます。
きっかけは「令旨(りょうじ)」だった
1180年、平清盛に不満を持った皇族の**以仁王(もちひとおう)**が動きます。

彼は全国の源氏に対し、「平家を倒せ」という**令旨(天皇の命令に準じる文書)**を出したのです。
これを受けて、各地の源氏たちが立ち上がります!
源頼朝が挙兵!源平合戦のはじまり
その中でも、最も有名なのが**源頼朝(みなもとのよりとも)**です。

彼はかつて平家に敗れ、伊豆に流されていましたが、この令旨をきっかけに挙兵し、鎌倉を拠点に力をつけていきました。
また、
- 源義仲(みなもとのよしなか/木曽義仲)
- 源義経(よしつね/頼朝の弟)
なども各地で戦いに加わり、平家と源氏の全面戦争(=源平合戦)が全国に広がっていくのです。
源氏と平氏の戦いの結末
源平合戦は5年にわたって続きました。
主な戦いには――
- 富士川の戦い(源氏初勝利)
- 倶利伽羅峠の戦い(木曽義仲の大勝利)
- 屋島の戦い(義経の活躍)
- 壇ノ浦の戦い(最終決戦)
があり、1185年、壇ノ浦の戦いで平家はついに滅亡します。

そして――
- 幼い安徳天皇は入水
- 平家の一門も多数が命を落とし
- 源頼朝は政権を握り、日本初の武士政権=鎌倉幕府を築くのです。
なぜ戦ったのか?簡単にまとめると…
要因 | 内容 |
---|---|
政治の独占 | 平清盛が政治・朝廷を牛耳った |
地方武士の不満 | 源氏や東国の武士が冷遇された |
天皇家の血統争い | 誰を天皇にするかで対立が起きた |
武士の時代の到来 | 中央 vs 地方、貴族政治 vs 武士政治の転換期 |
おわりに
源氏と平氏の戦いは、ただの“仲の悪い一族の争い”ではありませんでした。
それは、「貴族の時代」から「武士の時代」へと大きく変わる節目だったのです。
そして、この戦いの果てに生まれた鎌倉幕府が、日本の新しい時代を切り開いていくことになります。