海に沈んだ愛 ― チャイルド・バラッドから悪魔の恋人『The Daemon Lover』を紹介
チャイルド・バラッドとは?
「チャイルド・バラッド(Child Ballads)」とは、19世紀の英文学者フランシス・ジェームズ・チャイルドが収集・編集した、イングランドやスコットランドに古くから伝わる伝承歌の集大成です。
口承で語り継がれてきた全305編のバラッド(物語歌)をまとめたもので、妖精、幽霊、裏切り、呪い、愛憎といった民間信仰の深層が、詩のかたちで残されています。
その中には、単なる恋愛物語に見えて、人ならぬものとの契約や超自然との遭遇を描いた不気味な伝承も含まれています。
今回ご紹介する『The Daemon Lover(悪魔の恋人)』は、その代表格――チャイルド・バラッド第278番にあたります。
海に沈んだ愛 ― 悪魔の恋人『The Daemon Lover』に残る不気味な伝承
(チャイルド・バラッドNo.278より)
昔々、アイルランドのある海辺の町に、若くて美しい娘が住んでいました。
その娘には、かつて深く愛した青年がいました。彼は貧しかったものの、情熱的で、二人は結婚の約束まで交わしていたのです。

けれど男は、突然町を離れ、海を渡って行方知れずとなってしまいました。
やがて娘は涙を拭き、町の金物職人と結婚し、子をもうけ、静かな暮らしを送っていました――その日までは。

再会、そして誘い
ある夕暮れ、家の戸を叩く音がしました。
扉を開けると、見知らぬがどこか懐かしい、立派な身なりの男が立っていました。
「君は…わたしを忘れてしまったのかい?」
その声は、かつての恋人と同じ。けれど、顔はよく見えず、どこか陰のある微笑みを浮かべています。
娘は心を乱されながらも、「もう結婚したの。子どももいるわ」と答えました。
しかし男はささやきました。
「あの誓いを、忘れたのか?
君は私の妻になると約束したじゃないか。
わたしの国へ、一緒に来てくれるだろう?」

――その瞳には、不思議な力が宿っていました。
娘は抗えず、幼い子を残し、夫の目を盗んで、男のあとをついていってしまったのです。
二人は港へ向かい、男の用意した小舟に乗り込みました。
波は静かで、風は優しく、娘の心はなぜか妙に安らいでいきました。
けれど、しばらくしてふと気づきます。
海の上に、陸地の影がない――どこまでも黒い波が続いているのです。
娘は青ざめて尋ねました。
「…あなたの国は、どこにあるの?」
男は振り返り、静かに言いました。
「わたしの国は地の底。君を連れていく場所さ。」

そう言ったその瞬間、男の顔が崩れ、青白い骸骨のような姿へと変わったといいます。
小舟は音もなく、暗い海の底へと沈んでいきました・・・。
この物語の出典と背景
この不気味な話は、実際にイギリスやスコットランドに口承されていた民謡『The Daemon Lover』に基づいています。
有名な民謡研究家フランシス・ジェームズ・チャイルドによって『チャイルド・バラッド』第278番として分類されました。
この話は、以下のテーマが絡み合う不思議な構造を持っています。
- かつての誓い(未完の契約)
- 死者の誘惑
- 海=あの世の入り口
- 女性の好奇心と業
キリスト教的な「姦通の罪」や、「約束を破った報い」としての死の解釈も一部に見られますが、民間伝承としてはより原始的な「死者との婚姻」という呪術的観念が色濃く残っています。
怖いというよりも不気味なお話しでした。
🔖 関連情報
- 原題:The Daemon Lover / James Harris
- チャイルド・バラッドNo.278(Francis James Child 編)
- 分布地域:イングランド、スコットランド、アイルランド
- 関連テーマ:海の彼岸、死者の婚姻、禁忌、約束、再来