【実話伝承】京都に現れた疫病神と祇園信仰の正体|祇園祭のルーツをたどる
はじめに|疫病神は実在する「神」だった?
「疫病神(やくびょうがみ)」という言葉は、現代では「不運を呼ぶ人」を皮肉って使われることが多いですが、かつての日本では疫病そのものをもたらす恐るべき神として信じられていました。
とくに関西、京都を中心に広がった御霊(ごりょう)信仰や祇園信仰の中で、疫病神は強く意識され、人々の恐怖と祈りの対象となっていたのです。
1. 疫病神が都を襲った――平安時代の大流行
『日本紀略』や『扶桑略記』といった歴史書には、平安時代の京都でたびたび疫病が流行し、多くの人々が命を落としたことが記録されています。

特に有名なのが、**貞観11年(869年)**の大流行。このとき、朝廷は「これは御霊(怨霊)が原因だ」と考え、神泉苑で「御霊会(ごりょうえ)」を執り行ったのです。
これは、疫病を祓うために神々を招いて鎮めようとする儀式であり、ここからのちの「祇園祭」へとつながっていきます。
2. 牛頭天王とは何者か?──スサノオと習合された疫病の神
祇園社(のちの八坂神社)に祀られた神は、「牛頭天王(ごずてんのう)」。これはもともとインドの死病神で、仏教とともに伝来し、日本ではスサノオ命と習合されました。

牛頭天王は疫病をもたらす神でありながら、それを鎮める力も持つ存在とされ、人々は彼を恐れながらも手厚く祀りました。
これが後に、「祇園精舎の守護神=牛頭天王」→「祇園社」→「八坂神社」へと変化し、現在の祇園祭に受け継がれています。
3. 祇園祭は「疫病神を祓う祭」だった
京都の三大祭のひとつである祇園祭(ぎおんまつり)は、もともと疫病退散を願う「御霊会」がルーツです。

最初の祇園御霊会では、66本の鉾(国の数)を立てて神を降ろし、災厄を鎮めるための行列が行われたと伝えられています。
その後もたびたび京都で疫病が起こるたびに、祇園祭は盛大に行われ、疫病神を鎮める信仰として人々の心に根付きました。
4. 疫神(やくじん)送りの風習
京都だけでなく、関西地方各地には疫病神を村から追い払う「疫神送り」「やくしんおくり」という行事が伝えられています。
例えば・・・
- 奈良県のある村では、疫病が流行ると、「疫病神を乗せた人形」を川に流して送る風習があった。
- 大阪南部では、村境にワラ人形を吊るし、疫病神の侵入を防ぐという信仰も記録されています。
これらはすべて「疫病神は目に見えないが実在する」という前提に基づいて行われていました。
5. 福の神と疫病神がやってくる?──大阪の笑い話
大阪には、「福の神と疫病神がいっしょに旅をする」という俗話もあります。

ある貧しい男が旅の途中、二人組の神様に出会い、「泊めてくれたら福をやろう」と言われて泊めたところ、実は福の神と疫病神だった。翌朝、福の神だけが残り、男は幸せになる――というもの。
これは疫病神が常に「害悪」ではなく、神としての人格を持っていたことを表す寓話でもあります。
おわりに|疫病神は「恐怖の象徴」から「共に生きる神」へ

疫病神は、私たちが見えない恐怖に対して抱く“心のかたち”だったのかもしれません。関西では、疫病を単なる病ではなく、「神の怒り」や「怨霊の祟り」として受け止め、それに向き合ってきました。
その信仰は、現代にも通じる「祈り」や「思いやり」の形に昇華され、今も祇園祭や民俗儀礼として息づいています。
◇ 参考文献・史料
- 『日本紀略』(平安時代の歴史書)
- 『扶桑略記』
- 『祇園祭の歴史と民俗』岩田書院
- 『疫神と民間信仰』高橋正昭
- 八坂神社公式サイト・文化庁歴史資料








