平将門の首塚は本当に祟るのか?都心に残された最恐の禁足地の実話:三大怨霊の将門の恐怖
◆ 都心のビル群に残された異界の場所
東京・大手町のオフィス街には、異様な空気を放つ一角があります。
それが――**「平将門の首塚」**です。
この場所はかつて、関係者が次々と命を落としたことで「絶対に手をつけてはいけない」と恐れられてきました。
祟りという言葉を信じるかは別としても、実際の事故や不審死の記録が残っていることから、多くの人々が慎重な態度を保ち続けています。
◆ 首をはねられた将門の最期と“首塚”の誕生
平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期の武将で、関東地方で自らを「新皇」と名乗り、独立政権を打ち立てようとした人物です。

しかし、朝廷にとっては大逆人とされ、天慶3年(940年)に討伐軍によって首をはねられます。
その首は京都に送られ、都に晒されました。
ところが、当時の記録によると、将門の首は夜な夜な目を開き、笑いながら東へ向かって飛んでいったとされます。
その首が落ちた場所が、現在の東京都千代田区大手町一丁目。
そこに人々が築いたのが「将門の首塚」です。
◆ 実際に起きた“祟り”とされる出来事
◉ 1923年 関東大震災後の大蔵省再建工事
関東大震災の後、焼け落ちた大蔵省庁舎を再建しようと、当時の政府は首塚の破壊を命じました。

すると、関係者の間で14名もの不審死や事故死が相次ぎます。
この事態を重く見た政府は、工事を中止し、内務大臣が自ら現地で慰霊祭を行ったと記録されています。
◉ 第二次大戦後 GHQによる接収
戦後、アメリカのGHQがこの一帯を接収し、ブルドーザーで首塚を撤去しようとしました。
しかし、作業中に重機が横転し、作業員が死亡する事故が発生します。これにより、首塚は再び手つかずのまま残されることになりました。
◆ 今も続く“いじってはいけない”という空気
現代においても、首塚周辺の開発は慎重に行われています。
本当にここだけは茶化してはいけません。
実際、都市再開発の設計段階で**「首塚の真上には基礎を通さない」**という方針がとられ、工事関係者の間では「ここだけは触るな」という暗黙の了解があるとも言われています。
現在も毎年、企業や地元関係者による慰霊祭が執り行われていることからも、霊を鎮める信仰は今なお根強く残っています。
◆ 観光地ではなく“信仰の場”
首塚は、一般的な観光地とは異なり、派手な看板や土産物屋は一切ありません。

わずか数メートル四方の塚ですが、近づいた瞬間に空気が変わるような静けさと緊張感に包まれます。
現在も訪問者の多くは、静かに手を合わせ、将門の霊に祈りを捧げて帰っていきます。
◆ 将門はなぜ“恐れられる神”となったのか?
平将門は、朝廷に逆らった「逆賊」である一方、関東では民衆の英雄として崇敬されてきました。
この両面性により、将門は「祟る神」「御霊(みたま)」として神格化されます。
「敬えば守り神、ないがしろにすれば祟り神」
それが、将門という存在なのです。
◆ 参拝する際の注意点
- 不敬な態度やふざけた写真撮影は絶対に避けましょう
- 手を合わせるときは、心を静かにして将門の霊に挨拶を
- 首塚は信仰の場であり、観光目的だけでの訪問は慎重に
◆ まとめ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 東京都千代田区大手町1-2-1(平将門の首塚) |
| 事件 | 工事関係者の不審死、重機事故などが記録に残る |
| 信仰 | 毎年の慰霊祭、再開発時の慎重対応など、今も“畏れられる地” |
| 意味 | 敬うことで守り神にもなる“御霊信仰”の象徴 |









