暴れん坊将軍・徳川吉宗の知られざる素顔|庶民思いの将軍の人間味あふれる逸話
「世の顔見忘れたか!!」このセリフをご存じの方は今どのくらいでしょう。そう、時代劇、暴れん坊将軍の名セリフです。
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は「暴れん坊将軍」として知られていますが、実は庶民に寄り添う温かい一面を持つ人物でした。お忍び調査や改革の裏にある人情味あふれるエピソードを紹介します。
【1】お忍び将軍 ― 庶民の暮らしを自分の目で確かめた男
享保の改革で知られる徳川吉宗は、倹約家でありながらも現場主義の将軍でした。
彼はしばしば町人姿に身をやつし、江戸の町を歩き回ったといいます。

ある日、茶店でお茶を頼んだ際、店の女将が「はい、一文です」と答えると、吉宗は笑って「安いのう」と呟いたとか。
後日、家臣たちが驚くと、吉宗は「上に立つ者が下を知らねば、国は治まらぬ」と語ったそうです。
その精神が、のちの享保の改革を支えました。
【2】“暴れん坊”の若君時代 ― 無鉄砲から改革者へ
若かりし吉宗は、実際に“暴れん坊”と呼ばれてもおかしくないほどの行動派でした。
狩りや馬術、剣術に夢中になり、仲間と野山を駆け巡る日々。

しかし、その無鉄砲さがのちに「行動力」と「決断力」に変わり、幕府の財政立て直しや法の整備を次々と実行していきました。
まさに、暴れん坊から立派な将軍へと成長した男だったのです。
吉宗は武闘派だった記録が多数
吉宗は元々「将軍家ではない支流」の出身で、世継ぎ争いに敗れた側の家系だったため、いつ死んでもおかしくない立場でした。
その環境で鍛えたのが、剣術、馬術、弓術、鷹狩、などの武芸でした。特に剣術は「相当に腕が立つ」と記録されています。紀州新陰流の達人だったようです。つまり、ガチで強かったんですね。一人で町におりていけるのも納得です。
吉宗の周囲には伊賀・甲賀の忍者がいましたが、忍び達が付けた記録の中に
「吉宗様は不意を突かれても動じぬ」
「間近に忍び寄っても気配を察する」
というものもあり、常に集中力と危機管理能力が高かったとされています。
【3】庶民の涙に動かされた将軍
ある年、米の値が高騰し、江戸の庶民が苦しんでいました。
吉宗は「役人の報告だけでは実情はわからぬ」として、町に出て人々の声を直接聞いたと伝えられています。

一人の老婆が「将軍様、米が高くて子どもが食べられません」と訴えると、吉宗は即座に
「すぐに値を改めよ」
と命じたそうです。
彼の改革の根底には、人々の生活を思う優しさがありました。
【4】倹約家だけど甘党? ― 将軍の意外な一面
「倹約将軍」として有名な吉宗ですが、意外にも甘いものが大好きでした。
白玉団子やようかんをこよなく愛し、倹約令を出しているにもかかわらず、「これは薬だ」と言いながらこっそり食べていたという逸話も。

厳しさの中にユーモアを忘れない、そんな人間味あふれる将軍だったのです。
【5】愛馬「白雪」と共に ― 白き神将の伝説

吉宗は白馬「白雪(しらゆき)」を愛し、
その姿で町を駆け抜ける姿が人々の心を打ちました。
庶民は彼を「白き神将」と呼び、尊敬の念を込めたといいます。
この逸話が、のちに**「暴れん坊将軍」**のイメージを生み出す元となりました。
【まとめ】

徳川吉宗は、ただの権力者ではありません。
庶民の声に耳を傾け、改革を実行し、笑いも忘れなかった人間味あふれる将軍でした。
その生き方こそが、「暴れん坊将軍」として今なお人々に愛される理由なのです。
【おまけ】
徳川吉宗はどんな剣術を修めていたのか?
先程も触れましたが、吉宗は本当に強かったとされており、武芸の達人だったといわれています。少しまとめました。

■ 主に学んだと考えられる武術流派
| 種類 | 可能性が高い流派 | 理由 |
|---|---|---|
| 剣術 | 紀州新陰流(きしゅうしんかげりゅう) | 紀州藩で盛んに教授されていた |
| 馬術(弓馬術) | 小笠原流 | 武家の正式弓馬術として定着 |
| 柔術 | 起倒流など複数 | 実戦術として紀州藩で採用 |
■ 特に有力:新陰流の系統
吉宗は「紀州徳川家」の出身で、
紀州藩では 新陰流が主要な武芸教育の中心でした。
新陰流は“実戦剣法の王道”
斬・突・制圧を総合的に鍛える
徳川将軍家でも
- 家康:柳生新陰流
- 秀忠:柳生新陰流
- 家光:柳生新陰流
と、将軍と新陰流は強い結びつきがあります。
したがって吉宗も、その正統系と考えて自然です。
■ 吉宗が強かった理由 →「生き残るための剣」
若い頃、吉宗は兄弟を病死や暗殺で失い、自分もいつ命を狙われるかわからない状況でした。
剣術は趣味ではなく
実際に自分を守るための武器
だったのです。そのため、
- 急所を狙う技
- 複数戦を想定した立ち回り
- 馬上戦術や実戦想定の素振り
といった実戦を想定した力を徹底して鍛えたとされます。
■ 数あるエピソードの中でも特に象徴的なもの
- 一揆鎮圧の際に自ら馬上で先陣を切った
- 不意打ちに対してもまったく動じなかった
- 無礼な侍が刀に手をかけた瞬間、吉宗が先に柄へ手を伸ばした
など、胆力+実力を裏付ける記録が残っています。
サバイバルを生きのこるために培った心の力で、政治の立場から江戸の町民を守ってたんですね。








